ジョージ ナカシマを魅了した讃岐のものづくり

インタビュー 永見 宏介(桜製作所 社長)


一(ジョージ ナカシマに)実際にお会いして、どのようなことが印象に残っていますか?

木材置き場の中を一緒に歩いていたとき、ナカシマはふと振り返って「宏介、この木の声が聞こえるか。木が語りかけてくるだろう」と聞くのです。私は「何を言っているんだろう」と思いました。当時私はまだ20代で、ナカシマは70代でした。

しかしそれから時を経て、私は木が製材された瞬間に四角い切り口がふくらむ様子や、木の板が呼吸して「暴れる」様子を見て「木が生きている」ことを実感し、ナカシマはあのとき「板になっても木は生きている。木がどう動きたいのかを感じられるか」と言ったのだと理解できるようになりました。

また、製材所に100本位並んでいる丸太の中から、大変質の良いものを3~4本、瞬時に選ぶのを見ました。そのとき「丸太の木目が分かるか」と聞かれ「分かりません。先生は分かるのですか」と聞き返したら、ニコッと笑って「なんとなくね」と言われました。それを聞いて、ナカシマは本当に木が好きで,木が何をしゃべっていて、丸太の中がどうなっているかを感じることができるのだと思いました。

経済合理性から考えれば、大きい材から小さいものをたくさんつくった方が効率的です。しかしナカシマは「大きい丸太からは大きいものをつくりなさい」という考え方で、丸太を見た瞬間にこれは何に使うか見えていたと思います。普通はつくりたいものに合わせて材料を揃えますが、ナカシマはそうではなく、材料があって何をつくるかを考えるというプロセスでした。


ージョージ ナカシマの家具づくりの継承に必要なことは何でしょうか?

木材は使う場所によって堅さや柔らかさが違います。椅子のスピンドルの材も堅さを考慮して削り、どのように木目が出るかを調整しないといけません。うちではサンダーではなく鉋で仕上げています。木には順目と逆目があり、削るときにも向きを考えないといけない。一本一本違うので、職人は手でそれを感じて削っています。これを機械ではできません。仕上げのオイルで色が変わるので,そのことも考えながら作業しますが、こういうことがマニュアルでは教えられないのです。自分がつくったものが完成したとき、その良し悪しを自分で考えないとできません。職人は皆、それぞれ自分のルールを持っています。ものづくりにおいては全ての工程が大切です。

先程、私たちはずっと椅子の型を変えずにつくり続けていると話しましたが、職人の手も変わりますし、つくり方の技術も変わります。使用するオイルの原料なども時代とともに変わります。それは避けようがない変化であり、一方でそのまま残して良いものもあると思っています。

ジョージ ナカシマは、日本では父(永見 眞一)がきちっと自分の意図したものをつくっていたから、自分のデザインとして認めていました。それを私はこれからもずっと引き継いでいくことが大切だと考えています。


2023年4月10日 桜製作所にて

approach 2023 冬号English(発行:株式会社竹中工務店)」より抜粋

柳澤孝彦の仕事

対談 水野 吉樹(株式会社竹中工務店 設計本部 専門役)× 永見 宏介(桜製作所 社長)


東京都現代美術館のスツール

永見〉

東京都現代美術館の建築担当として、家具のデザインを柳澤さんと一緒にやっていたのは水野さんですね。

水野〉

はい。いくつかの家具や造作のデザインは僕がある程度描いたものや原寸で作った模型を、柳澤さんに「これで良いですか」と見せてチェックを受けるというプロセスで決まっていきました。だからあのスツールは個人的にも本当に思い入れがあります。

永見〉

都現代美術館で使われているスツールはもともとラフな図面はあったんだけど、気づいていなかったことがありました。現物を見てみると9mm、目地が空いてますよね。座面の中央にある9mmのスリット、座面の厚さが45mmあって、完全に抜けているのではなくてその目地の深さは14mm。脚部の厚みも同じ45mmだけど、見付は36mm9mmしゃくってあるんですね。

讃岐民具連の意匠が効いているように感じます。

水野〉

その方が美しいっていうことだったと思います。側面に見える板厚は同じ見付寸法より、座面の方を厚く見せた方が良い、そういうプロポーションの調整だったと思います。それも9mm

またせっかく桜製作所さんに作ってもらうのだからぜひアクセントに杵型のチギリを入れたい、そしてやっぱり讃岐民具連っぽい飾りホゾも入れたいと、柳澤さんと相談して決めたと記憶しています。

永見〉

あの飾りホゾは、うちのオリジナルの組み方です。元々は讃岐民具連で流政之と製品開発をやったとき、あの組み方でうちが意匠を作ったんです。そうしたらナカシマさんが来て、それを使って三つ抽斗の小さなケースをデザインしました。それがナカシマケースです。

アメリカでは普通に組んだ箱でした。だけどうちでは、最初からあの組み方で作っています。

それを都現代美術館でも使ってくださったんですね。元々1960年代の意匠だった組み方を使うことで、取って付けたような箱型のスツールではなく、そういう背景を踏まえたものを作ろうと、おおかたの形とかチギリを入れることなどは最終的に柳澤さんがお決めになりました。

水野〉

でもやっぱり先代の、永見(眞一)会長のご意見もずいぶん入っていたんですよ。

永見〉

父が「こうしましょう」とあの意匠の入ったものを提案し、「ではその組み方に」と決まったのだと思います。まあ、そういう痕跡がいっぱい残っているシンプルな四角です。

水野〉

シンプルな四角形なのにすごく主張していて個性が強いですよね。

永見〉

スリットとか契りとか角栓を入れたりとかね。

箱組みの

水野〉

桜製作所さんならではのデザイン要素が、濃密にぎっしり詰まってる!

永見〉

そうなんです(笑)。

水野〉

デザイン、柳澤孝彦+永見眞一でいいよね。

こんなふうに協働して作ったんだという思い出を遺しておきたいな。


リトルスミス

永見〉

柳澤さんは、大きなプロジェクトばかりでなくて、時に小さな店舗設計などもされてましたね。

水野〉

Bar リトルスミスのことはね、サム・フランシスと一緒に思い出すんです。

ある土曜日の夕方、当時は「仮称 東京都新美術館」と呼ばれていた木場の工事監理事務所での打合せのあと、珍しく柳澤さんが「ちょっと付き合え」と誘ってくださいました。柳澤さんにお伴してまず訪ねたのは、サム・フランシスの作品ばかりを展示していた京橋の画廊。きっとお目当ての作品を決めておられたのだと思います。その時、柳澤さんはその画廊で迷うことのない様子でサム・フランシスの絵を一枚買われました。その後軽く食事でもしようとお連れいただいたのがリトルスミスでした。この店で一番いい席に案内すると言って、大きなオーバルのカウンター席の奥の方の、大きな節の穴が開いている席に座らされました。そして「厚い無垢板を使っているカウンター天板で、ここみたいに死節が抜けているところがあれば、ちゃんと無垢だってわかるだろ。だからこの席が一番その価値を確かめられる特等席なんだ」って教えてくれました。

それにしてもあのカウンター天板の巨大なオーバルの優美さは、桜製作所さんでなければ出せませんよね。

永見〉

柳澤先生から「アールになって曲がった板はありますか?」って言われて。父はそれから何度か材木置き場へ探しに行って、ついに良さそうなものを見つけてきました。

水野〉

「リトルスミスのための板があるので見に行こう」と桜さんの倉庫の奥まで連れていかれたこともありました。建築・家具担当の役得で、桜製作所さん、和泉家石材さんへは2~3回お伴させていただきました。今日こうしてお話させていただけることもそうですが、とにかく柳澤さんとご一緒して牟礼へ通い、永見さんや和泉さんとお仕事させていただいた経験は何事にも代えがたい貴重なもの、その後の僕の建築作品にも大きな影響を与えてくれて、これまでの人生での大切な財産だと思っています。

牟礼に行くときはいつも二人だったでしょ、出張先ではずっとマンツーマンですからね、いま思うと贅沢な時間でした。夕食後、高松市内のホテルに帰り、翌朝起きるとね、スケッチ持ってきて「昨晩こんなの考えたんだけど」って。ホテルに戻った後にちゃんと部屋で考えて、スケッチされてるんですよ。凄いなと思いましたよ。こっちは酔っ払ってガーっと寝てたのに。僕はまだようやく30歳になったばかりのころで、若い感性をすっかり刺激されてとにかく柳澤さんからは大いに薫陶を受けました。


2023年4月25銀座四川料理店にて

柳澤孝彦の仕事 東京都現代美術館のスツール」対談集より抜粋

ギラ サラバイの功績  

 建築家でデザイナーのギラ サラバイはインド アーメダバードの自邸で2021年7月15日に96歳の生涯を終えた。彼女はインドの綿布(キャラコ)産業で財をなした富豪一族の家に生まれ、祖国に様々な足跡を遺した。そのひとつが、NID (National Institute of Design)の設立である。

 1955年8月2日、彼女はアメリカにいたジョージ ナカシマに手紙を出す。1961年に設立するNIDの客員顧問としてインドで木工の技術指導をしてもらうことを依頼するためだった。*しかしナカシマは何年もの間、返事をせずにそのままにしていた。ようやく彼女の申し出を受けてインドを訪問したのは、1964年11月のことである。

 その年、ナカシマは香川県庵治町にある彫刻家 流政之のアトリエを訪問した。同時に桜製作所の高松頭や永見眞一らが流とともに発足させたばかりの讃岐民具連メンバーたちとも交流して、活動に参画する約束をする。その帰り道、インドへ足を伸ばし2週間の滞在をしたのである。こうして奇しくも日本の讃岐民具連とインドのNIDで、同時に木工指導を始めることになった。

 インドのNID(国立デザイン研究所)は当初、フランク ロイドライトの建築プロジェクトとして計画されたが実現せず、まずはルコルビジェ設計の博物館を使用して運営を始めた。その後に顧問建築家となったルイス カーンによる建築プロジェクトが、イームズ スタジオのメンバーなども加わり進行した。またスイスからグラフィックデザイナーのアーミン ホフマンも訪れ、インド初代首相ネルーの記念展をデザインした。当時、数多くの国際的に影響力のある人たちがその運営に関わった。*

 ナカシマはここで材料中心の工業製品の製造工程とは異なる、伝統的なインドの職人技能と工芸品の製造工程を結びつけた34種類のモデルをデザインし提供した。このことは脱工業化の概念として今日にも引き継がれるものだ。現代の環境問題に調和しない工業プロセスの課題に時から向きあっていたということはとても重要で、今もって注目されている。偉大な木匠を招き70年代半ばまで製作の指導を求めたギラサラバイの功績は、60年近く経過した現在改めて見直されるところである。残念ながらインドでの製作は、10年に満たない期間で終わってしまった。

 2016年にNIDで開催されたジョージナカシマ50周年記念展に招かれ、訪印した折には、まだ元気であったギラが、ミラ ナカシマと私を自邸で朝食に招待してくれた。昔の思い出話を聞ける機会を得られたことはとても貴重な体験であった。招かれたギラの自邸や隣接するキャラコ繊維博物館には時のナカシマ家具が至る所に置かれていた。またその後に案内されたルコルビジェ設計で有名なサラバイ邸でも、ナカシマのダイニングテーブルとグラスシートチェアが今なお使われていた。

 インドで見た作品の多くがインド産のローズウッドであったことは、とても印象深い思い出のひとつであった。


ギラ サラバイを偲んで

永見宏介

* NAKASHIMA at NID Edited by Tanishka Kachru Adira Thekkuveettil

企画展「ギラ サラバイの功績」より 2022年9月

ブログレンスツール

 ワシントン大学が毎年1名ずつ、アメリカ国内外で功績を残した卒業生に対して贈る最高の賞がある。1990年、ジョージ ナカシマ はその栄誉を受けて間もなく、85歳の生涯に幕を閉じた。娘のミラさんが後に「その受賞を本当に嬉しそうにしていた父の姿が忘れられない」と話してくれた。ワシントン大学での思い出がジョージの心に強く刻まれていたのだろうと、印象に残っている。

 そのワシントン大学の同級生であり、夫婦ともに建築家であったブログレン夫妻から頼まれて作ったブログレンスツール。1989年アメリカンクラフトミュージアムで開催されたジョージ・ナカシマ回顧展 FULL CIRCLEを観に行ったとき目に止まった、一風変わった形状の小さなスツールがそれだ。その可愛らしいスツールは、素材も形もナカシマの作品の中では、異色な佇まいであった。キャプションには、サイプレス材(Cypress)とあった。調べてみると「ヒノキ材」、家具にはあまり使われないソフトウッド(針葉樹)の作品だから特に珍しく感じたわけだ。

 ナカシマが日本で初めて展覧会をしたときのタイトルは「私は木から始める」で、作品には世界中の様々な木が使われていた。香川で障子の組子を見て発想した照明器具の麻の葉模様は、確かにヒノキを使ってはいたのだけれど、作品のほとんどがハードウッドだ。サイプレスというヒノキ材についてはこのとき私に知識もなかったが、このスツールのデザインがなぜソフトウッドで強度を保てるのか不思議ではあった。

 今回、ここ鎌倉山での展覧会で、YAECAの服部さんと企画を一緒にした水澗さんがこの可愛らしいスツールに興味を持った。「復元ができないか」との相談を持ちかけられたとき、どんな材料で作ればよいのかまず悩んだ。そもそもこのスツールが作られたのは1940年代、完成時の姿がどのようなものだったかは想像するしかない。30数年前にアメリカンクラフトミュージアムで展示品を見てはいたけれど、はっきりと思い出すこともできない。展覧会図録の写真だけで作るのは無謀だと思い、あまり乗り気ではなかった。ただ、お二人が強烈に望んでいたので、なんとかしなければという使命感でニューホープのミラさんに電話を掛けた。1年ほど前に息子のケビンが病気で亡くなり、段々とジョージのことを語れる人が少なくなってきたことにも、内心焦る気持ちが働いていた。

 電話に出たミラさんの言葉に吃驚した。意外にもそのスツールはニューホープのアトリエにあるというのだ。ブログレン夫妻が亡くなる前にケビンにそのスツールを贈り、貴重な資料として託したということも、ミラさんは教えてくれた。ケビンに贈られたそのスツールが、ナカシマ財団で保有する作品の一つとして受け継がれたのは喜ばしいことだった。

 復元の話になり、ミラさんが現物の型をとって試作し、我が社で製作することの了解をいただいた。数ヶ月後、簡単な図面が送られてきた。現物は経年変化で形が歪んでいたので、試作の段階で何カ所かを修正し、形を整えて図面に描き起こしたのだ。早速、図面を元に我が社の職人が作ってみることにした。ジョージが生きていた時代からナカシマのデザインは、作る職人の手道具の感触で微妙に細部の仕上がりを変えるので、図面通りに複製(コピー)するという、普通の製品作り(プロダクト)の発想とは違う工程(プロセス)になる。今回もニューホープでまず試作したものが図面にされ、それをまた日本で改めて試作し直して完成形をつくるという工程になった。

 電話でミラさんと相談しながら、3本の脚は、小判型の柱をきれいな曲面にせずに手鉋(かんな)で削って仕上げることにした。座面との接合部は、“蟻ほぞ”と呼ばれる継ぎ手で接合されている。その形を再現することは、器用な職人が細工すればそんなに難しい仕事ではないのだが、この座板にどうしてこの接ぎ手で組んだのか、理由をいろいろと想像しながらの作業となった。写真で見る限り、座面も平ではなく中央部が窪んでいたのだが、これは経年による窪みだろうと判断して、平に仕上げることにした。最初からどうしようかと悩んでいた樹種は、最終的な判断で、一番ナカシマが好んで多用したアメリカンブラックウォルナットが良いだろうと意見が一致。ようやくこの復元作品が完成した。

 鎌倉山の建物が吉村順三の設計であり、和の空間にも展示されることから、このスツールは日本の檜でつくることも選択肢としてあった。けれどサイプレスという樹種がそもそも日本的ではないし、アフリカンプリミティヴな造形とも感じられて、どこか洋の雰囲気を残しつつもプリミティヴな趣を消さない仕上がりをイメージして作ってみた。80年以上も前の作品だ。忠実に復元するというよりは、これまでの時代の推移などが加味されたものであって不思議ではないだろうと思う。

今回企画したお二人がどのような印象でこの完成品を展示するのかは、またさらなる楽しみである。


永見宏介

鎌倉山 ink gallery ジョージ ナカシマ展」より 2022年3月

11 Book Matches & 7 Solid woods 永見眞一、92歳の仕事

ブックマッチ

一本の丸太を挽き、重なり合った二枚の板を、本を開く様に広げると左右対象の模様が生まれる。

本の綴じ目の形からブックマッチと呼ばれる。

左右反対にすると全然違った模様になる事もある。

テーブルの甲板に使う事が多いが縦にして扉にしても面白い。古くは寺社などの門の扉にこの方法が使われた。

皮目が真っ直ぐな長方形のものが素直で無理がない形であるので一番多い。

ただそれでは何か飽き足りないので、皮目の変化のある曲線のものを合わせれば思い掛けない形になる。

それでも少し嫌みだなと思ったら適当に一部対称にカットする。


木のどの部分を使うか

どこを使うかというより、むしろどう使うか、何に使うか。


11 Book Matches & 7 Solid woods 永見眞一、92歳の仕事」より抜粋 2015年3月

出会ったひと 出会ったとき 出会ったもの

香川県立工芸学校

生涯の友として人生の大半を共にした高松顕君とは、香川県立工芸学校でめぐり会った。

彼は木工科、私は建築科と接点は少ない筈であるのに、通学の途中に彼の家があったため、毎日のように帰りに寄っていた。

彼は非常に器用で、小さなモーターを載せた模型電車を作ったりしていた。

卒業してからは別々の仕事について離ればなれになったが、機会があれば東京でも会うことがあった。

香川県立工芸学校に入学したのは1936年。

校内の雰囲気は、工芸系の学校として大正ロマンがまだ少し残ってはいたが、もう昭和初期のバウハウスを感じる新しい方向に進もうとしていた。

特に建築科は、東京から都会の匂いにつつまれた若い先生が来られた。その頃まだ「図案」と言われていたデザインの鈴木三男先生だ。

東京美術学校を出られて間もない先生で、如何にも新しい時代のデザインを感じさせて下さった。

この時のデザインについての感性が、後々まで私の基礎になったように思う。

戦後、高松君が木工の会社を自分で始めようと思ったのも、会社勤めでは思いのままやれないデザインを、好きなだけ自由にやるにはそれしかないと考えたからだ。

こうして設立した桜製作所は、今までもその頃のデザインに対する考えを一貫して通している。


あとがき

思えば、大正・昭和・平成と長い年月を過ごさせて戴いた。

「袖振り合うも多生の縁」という諺があるが、その時その時で色んな方々とめぐり会うことができたこと、たいへん有り難いと思う。

特に流 政之先生とは初めてお会いした若い頃、毎晩のように高松君と三人で飲み歩いて色んなことを教わった。

何といっても有り難かったのは、ジョージ  ナカシマさんを紹介して戴いたことである。桜製作所にとってジョージ ナカシマさんはかけがえのない大切な方である。

ジョージさんはあまり多くを語らなかったけれども、ただそこに居られるだけで心に直に伝わってくる、言葉でない何かを発散して下さった。

今、如何にもたくさんの方々との深いご縁に思いを馳せる。

本当に有り難いことだ。

しみじみと幸福だったと思う。


平成23年11月吉日

永見眞一

「出会ったひと 出会ったとき 出会ったもの」より抜粋 201111

ジョージ ナカシマ 流 政之

永見 眞一 高松 顕 ジョージ ナカシマ

木のこころを読む

見本をもとに再現

ナカシマの理念や技を習得

ナカシマは展覧会の度に桜製作所に滞在し、折に触れ語ったのは、「木を知ること」「木のこころを読むこと」「木と対話すること」の重要性であった。何百年と生きてきた丸太に手を加え、家具として第二の人生をスタートさせるのだから、その責任は重く、ナカシマをもってしても一枚の厚板の前で何年も黙想することもあったという。

常に木への崇敬の念を抱いたナカシマは、木に刻まれた傷や反り、割れをも生きてきた証と考え、木を無垢のまま、あるがままの姿で使い続けた。そうした彼の理念は、"傷がある無垢材は使えない”としたそれまでの価値観から大きく掛け離れたもので、永見(眞一)さんらにとっては大きな驚きであったという。

また、ナカシマは家具一つひとつに設計図を描いた。傷や割れはもちろん、木目や節まで表情として書き込み、どこを生かし、どこをカットするかを決めた。

かと思えば、椅子を作る時には、アメリカからバラバラのパーツ見本だけを送ってきて、同じものを作るよう指示がある。「当然、図面はありません。そのパーツを見ながら、職人たちが試行錯誤で再現するんです。そして、ナカシマさんが来日した時、手ほどきを受けながら手直しをして完成させていきました」と永見さん。こうした経験を繰り返しながら、桜製作所の職人たちはナカシマの理念や技を習得していったのだ。


原点は木の声を聞く

この記念館(ジョージ ナカシマ記念館)の奥にあるのが桜製作所の工房。昨年末に古市良三前工場長が定年退職し、ナカシマから直接手ほどきを受けた職人は現在7人になった。

その中の一人、かつて椅子のパーツ作りを教わったという大嵜輝喜さんは、椅子製作の総責任者。今では見本を見なくてもコンマ数mmを見極め、カンナ掛けの回数も分かるという。その熟練の技を次の担い手たちが継承しようとしている。ナカシマは家具作りを通して人づくりも行ったのだ。

「『木のこころを読み、木と対話すること』、それが私たちのものづくりの原点です」と永見さんは言う。そして今日も材木置き場に出向き、木の性質や木目に合わせ、その木をどう使うかを決める「木取り」をする。しばらく木を眺めた後、スーッとチョークを走らせ、線を引く。「ナカシマさんだったらどうするかな、いつもそんなことを思いながらやっています」とつぶやきながら。


ライト&ライフ 2011年4月号 No.604(発行:四国電力株式会社 編集部)」より抜粋

木の

やっとこの頃その声が聞える様になった。

工場の奥にある色んな板が、こんなベンチやこんなサンソーテーブルになりたいと語ってくれる。

四十数年前、まだ野ッ原の様だった高松空港のYS-11のタラップから降りて来られたジョージ ナカシマさんと初めての握手をかわした。

それからの長い月日、非常に沢山の事を教わった。

その中でも特に大きかったのはジカにその木からの声を聞く事であった。

最近、挽き落としや小さな木っ端も語ってくれる様になった。

それらは気安いせいか語り口も気楽で愉快で楽しい。

その楽しさからこんなものが出来た。

出来てみるとやっぱり人さんに見て戴きたい。

気恥ずかしいのですが並べてみました。


永見眞一

永見眞一木彫展木の顔」より 20082

ミラ ナカシマ ヤーナル ⇔ 永見宏介 ジョージ ナカシマを語る

スケールは違っても、家具は建築


宏介〉

近代建築というのは、自然と共存することを考えないで空間を切ってしまうようなところがありますよね。

でも日本の昔からの建築の考え方というのは、外があって中があってという一体感を大切にする。

レイモンドなり、吉村順三なり、ジョージ ナカシマなりがそのよさをきちんと理解して、それを建築の中に残そうと試みた。

家具作りのベースにも同じ発想があるわけですね。

ミラ 〉

そう。自然の木の形を使うと、人間が形にする木と違うものになります。

父が家具作りを始める前には、木はただの材料でした。フリーフォームといっても人間が作る形でした。

父はフリーフォームは自然の形だと言っています。

その自然の形を家の中に持ってくると、日本建築と同じように、外が中に入ってくる。だから人間には心地いいんです。

本当はあんまりきちっとした現代建築の中では住みにくいんです。みんな硬くて息が詰まりそうだから。

そこには自然の気持ちや自然の材料がないでしょう。そういうところに住んでいる人たちは逆にナカシマの家具が大好きです。

テーブルひとつでも自然のモノとして使ったら、生活が違ってくるでしょう。  


ミングレン ナカシマ ファニチャーの誕生


ミラ〉

高松で作り始めたのは、64年に行ったのが最初でしょ。流さんの紹介で民具連の人たちに会って…。

宏介〉

63年に讃岐民具連を結成して、その後、64年にジョージ ナカシマが来た。メレビス ウェザビーや…。

ミラ〉

あぁ、懐かしい!メレビス ウェザビーは東京のおばさんのところで住んでいました。同じ土地に家があったんです。

民具連はできたばっかりだったのね。昔からあったと思っていました。

宏介〉

流 政之が発案しその後見人としてウェザビーさんや、あとジョン D ロックフェラーさんも来たんです。

流 政之がジョージを連れて来て誘ったら、これはとってもいい活動だから自分も参加しましょうと。

帰ったらべン シャーンにも話そう、彼もきっと興味を持つと思うと言って。

それで、ジョージは展覧会にベン シャーンの絵をたくさん持って来たんですよ。紹介するためにね。

ミラ〉

なるほど。

宏介〉

そういういきさつでジョージが64年に来て、じゃあここで作品作ってみますかっていう話になったと思います。

それでコノイドの現物が送られてきて、それを見て、うちの職人が同じように作ったんです。

今度はそれをアメリカに送って、ジョージがチェックして、これでいきましょうと。

こうしてミングレン ナカシマ ファニチャーが誕生したんです。

その頃、ちょうど小田急百貨店インテリア部の西澤さんが、小田急の別館、小田急ハルクのためにいい家具を探して全国行脚中でした。

たまたま香川に来たときに第一号のミングレン ナカシマを見つけて惚れ込んでね。

これをハルクのこけら落としにしたいと言っていたんだけど間に合わなくて、結局68年に展覧会をした。

そのときには渡辺力や剣持勇、長大作、脇田和といった当時もっとも感覚の鋭いとされていた人たちが来たんです。

ミラ〉

それ覚えていましたか?

宏介〉

一回目の時のことはほとんど覚えてないですね。

私は八つですからね(笑)。


日本の職人の仕事ぶり


宏介〉

ミラさんが88年や90年の展覧会のために日本に来て桜製作所で仕事をしましたよね。

そのときの職人の印象と、普段アメリカで一緒に働いている職人さんとの印象に違いはありましたか。

ミラ〉

日本の職人さんはいつもすごく親切でした。88年の展覧会のときに父は一緒じゃなかったでしょ。

だけど私の言うことを父の代わりとして同じように聞いてくださって…。嬉しかったですね。

その頃、父はまだ生きていましたし、私はまだ若かった。

ここでは全く認められていなかったんです。私が図面を描いても父が指導しました。

私は何にも言えなかった。職人も私の言うことを全然聞き入れませんでした。

でも日本に行ったら、職人さんがちゃんと私の言うことを聞いてくれたからびっくりしました。初めての経験でした。

宏介〉

日本の職人の仕事ぶりはどんな風に感じましたか。

ミラ〉

ものすごく丁寧。ただ形にすればいいというんじゃなくて、気持ちも伴った本当の技術できれいに作りました。


2007年7月ニューホープにて

「ジョージ ナカシマ ミラ ナカシマ ヤーナル ⇔ 永見宏介 ジョージ ナカシマを語る」より抜粋